作家 年表

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2011

ミステリー小説「チーム・バチスタの栄光」などの著者で医師の海堂尊さんに、ブログで名誉を傷つけられたとして、深山正久東大大学院教授が330万円の損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第2小法廷(竹内行夫裁判長)は8日付で海堂さん側の上告を棄却する決定をした。海堂さんに60万円の賠償を命じた二審判決が確定した。一審東京地裁は賠償額を110万円としたが、二審東京高裁は一部の記述について名誉毀損(きそん)を認めず、減額していた

4時31分、NHKニュースで、「死亡時画像診断 実施へ報告書」が報じられる。内容→CTなどで遺体を撮影し、その画像を分析して死因を調べる「死亡時画像診断」について厚生労働省の検討会は、児童虐待などを見逃さないよう、死亡原因が分からない子どもの場合には原則としてすべてのケースで画像診断を行うべきだとする報告書をまとめました。死亡時画像診断は、遺体の内部をCTなどで撮影し、その画像を分析して死因を調べる方法で、遺体を傷つける解剖に同意しない遺族の希望などによってここ数年、各地の医療機関で普及しています。厚生労働省は、死亡時画像診断をさらに活用するため専門家による検討会を設置し、実施する際の要件や課題について議論を進め、30日報告書をまとめました。それによりますと、画像の撮影は原則として放射線技師が行うことや、画像から死因を診断するのは一定の研修を受けた専門の医師が行うことが望ましいとしています。また、実施するには遺族の了承が必要だとしたうえで、児童虐待などを見逃さないように、死亡原因が分からない子どもの場合には原則としてすべてのケースで画像診断を行うべきだとしています。また、全国各地に24時間体制で死亡時画像診断を受け付ける窓口を設置することも提言しています。厚生労働省は「医療現場での活用によって死亡時画像診断の精度を向上させてほしい」と話しています。

平間至のギャラリーPiPPOが、浅草FOTOBOで開催したトークイベント「写真家、写真集を語る」(要予約)にて、(諏訪のシリーズを中心に、)過去出版された写真集を追いながら、「制作エピソードや苦労話、写真集を作る過程などの裏話、写真集に対する思い」などを、具体的に披露。聞き役は、写真家の中藤毅彦

渋谷O-EASTにて開催された「PHOTOGRAPHERS SUMMIT 8」へ参加(4月に行われるはずが、地震の影響で延期になっていたもの/要予約/開場 18:00/開演時間19:00/前売 2000円/1ドリンク付/当日 2500円/1ドリンク付/学割 1500円)。諏訪を中心とした写真をスライドで紹介

飯田隆昭とのトークセッション開催。日時:2011年5月5日(土)19:00 -(開場 18:30)会場:ジュンク堂書店池袋本店 4Fカフェ(東京・池袋) 入場料:1000円(1ドリンク付き) 定員:40名

日本経済新聞 朝刊 最終面の文化欄に、『越境者のまなざし』というタイトルで、三週間ほど、10回にわたり、コラムを執筆。生まれた場所を離れて、異質なるものを撮影した写真家たちを10人紹介。キャパ、ロバートフランク、古屋誠一、エリック・・・

2010

『月刊文藝春』で、「神々の気配」というタイトルの不定期連載を開始。内容は、日本のあちこちで、神の気配を撮るという試みで、1年に数回掲載予定。今回、グラビアページに掲載された内容(13pほど)は、昨年のちょうど今頃撮影に行った宮崎県、高千穂の夜神楽の写真と、今年の2月と6月に長野の戸隠に撮影に行った写真

小林紀晴が、宣伝用ポスターの写真とテレビCMを撮影したDREAMS COME TRUEの 新しいアルバム『LOVE CENTRAL』が発売される

一日中(ぶっ通しで6時間)、休館日の東京都写真美術館にて、「古屋誠一写真展」の展示記録写真をデジタル撮影。また、この日発売された週刊現代(7/10日号・講談社)モノクログラビアページに、6/14(東ティモールより帰国した翌日)撮影した志村けんの写真が掲載される

東京工芸大の写大ギャラリーにて、夕方、今年の木村伊兵衛賞受賞をした若き写真家高木こずえ(小林と同じ長野県出身)と対談を行う。小林の卒業制作(22年前の作品)と高木の卒業制作、高木と小林が撮影したこの春の御柱祭の写真もスライドで上映

9日間の滞在の後、赤道直下の国、東ティモールより、帰国

王子ネピアが進めている「千のトイレプロジェクト」での「東ティモールでの支援に関する写真」を撮るため、東ティモールへ出発。毎年訪ねていて、今回で三回目。今回は、山深い高地にあるコーヒーの村を訪問

古屋誠一の写真展に関連して、東京都写真美術館のホールで、学芸員と二人でトーク(本人体調不良により、来日予定がキャンセルされたため)

社団法人日本写真家協会(略称JPS)主催のセミナー(トークイベント)にて、講師を務める。講 師:小林紀晴 スライド・トークショー「旅と写真」。日時:6月3日(木)19:00~20:30。会 場:東京都写真美術館アトリエ(創作室)、[要申込・参加費無料・定員40名]

BS JAPANのデジカメ散歩(第8回 5月30日放送)のため、一日、横浜で撮影。テレビの企画で、東横線の大倉山から歩き、菊名、そして最後は新横浜のホテルまで。オリンパスのデジカメペンで撮り歩き

半年ほど前から、企画から考え、地味に進めていた「ひとりの仕事」という名の写真と文章が、本日発売の週刊文春に掲載。昨今の日本の不況のなか、仕事って、なんだろうと改めて考えてみた企画。具体的には、一人で仕事をしている人達を日本のあちこちに訪ねて、写真を撮り、インタビューを敢行。切り口は、幸せの基準を他人に求めず、人と比べない生き方を探る、というもの

ブログ『小林紀晴のブログ 日々のツブツブ』開始

2008

2008年1月2日の午後2時から午後11時55分までテレビ東京系列・テレビ大阪系列で放送された新春ワイド時代劇「徳川風雲録 八代将軍吉宗」の脚本を担当

2005

平成17年度の厚生労働省補助金事業として「診療行為に関連した死亡の調査分析モデル事業」(以下、モデル事業)が開始された。モデル事業は、日本内科学会が運営の主体となり、共同声明の19学会、内科、外科のsubspecialty18学会、日本歯科医学会の38学会の支援の元に開始され、平成17年9月から平成22年2月までの間に105例の事例を受付け、診療行為に関連した死亡の調査分析のあり方について様々な観点から検討を行った。この事業にはAiに関係していた病理学会理事も参加していたため、海堂はAiを導入した方がよいと提言を行なったが完全に黙殺された、とされる

病理学会に提案したAiのシンポジウム企画が、「病理学会員の発表者比率が少ない」という理由で却下される。閉鎖的過ぎる理由に、Ai導入運動は、アカデミズムの世界ではもうダメだと見切りをつける。だが、この企画は、結果を聞いた群馬大病理の教授が仲立ちしてくれ、少々の手直しですっぽり、放射線学会のシンポジウムとして蘇生した

タイトルとペンネームを決定。タイトルは、暫定タイトルから一歩も外に出なかった。ペンネームは20くらい考えたが、最後にはわけがわからなくなって、ひょいと決めた。だから、ペンネームの本当の理由は、「何となくいきあたりばったり」である。なお、ペンネームの由来には、本人も知らない説がいくつかある。→ヤマトタケルからとった「怪童タケル」という話。マンガ『がんばれ元気』に出てきた登場人物由来説(海道卓と火山尊のミックス)

4月14日から4月16日にかけ、横浜で開催された第94回日本病理学会総会にて、Aiの発表が三つ重なる。シンポジウムとワークショップ、講演の揃い踏み。「オートプシー・イメージング・フィールド(Aiフィールド)の構築.ー画像病理融合によるピットフォール回避」、「新しい死亡時医学検索の確立ー剖検とAutopsy imaging(Ai)によるDouble audit system」、「オートプシー・イメージング・オーガン(臓器Ai=Ai-O )の基本的展開」

Aiに関する医学専門書「100万人のオートプシー・イメージング(Ai)入門」を、刊行

シリアDamascusで3/29-30に開催された、死亡時画像に関する法医学分野の国際シンポジウム「第一回法医放射線医学の進歩に関する国際シンポジウム」に参加。また、オプショナルツアーで訪れた、シリアの片田舎にある古城が、後の『螺鈿迷宮』での碧翠院桜宮病院のフォルムの原型になる

『チーム・バチスタの崩壊』初稿完成(ここに至るまで、一度、途中で詰まったが、すぐに解決策を思いついた)。これを本にしてもらたい、と色々調べた結果、『このミステリーがすごい!』大賞へと応募することを決意。学会発表準備に集中する必要があったため、推敲はゴールデンウイークから入ることとし、とりあえずプリントアウトした初稿は、気が散らないよう、ガムテープでぐるぐる巻きに封印した

廉価版Ai専門医学書「100万人のオートプシー・イメージング(Ai)入門」執筆を終えた瞬間、「これでは売れない」と実感し、仕方なくこの戦略を諦める。その時ふと、以前、ミステリー仕掛けなら売れるかもしれない、とちらりと考えたことを思い出す。そのうちにトリックが浮かんだため、書き始めてみたら、医学書を仕上げた余勢もあって、一気に200枚を書き上げることができた。これが、『チーム・バチスタの崩壊』第一部である

2004

オーストラリアの国際病理学会で「解剖の未来」というシンポジウムでAiについて発表を行なう。これは、当時一面識もなかった横浜市立大学の先生が、自分が受けたオファーを回してくれたもの

Aiに関する医学専門書「オートプシー・イメージング―画像解剖」を、共著にて刊行

2003

日本医科大学内、病理学資料室にて開催された「第0回 Ai学会設立総会」に於いて、数例の施行例を踏まえて「オートプシー・イメージングの概念とその実際」を紹介

医療系雑誌にて、連載「治療効果判定病理学」を開始。また、Aiについての世界初の英語論文がアクセプトされる。八月Ai学会設立。経緯←筑波メディカルセンター病院でAiと類似検査概念であるPMCT(検死CT)を実施していることを知り、責任者へ会いに行ったことがきっかけ。両者はその場でAi学会設立に同意した、とされる

2002

ニューヨーク滞在

十二月、病理学会地方大会でAiについての演題発表。反響があり、その時知り合った群馬大教授(当時)の紹介で、翌年三月の病理学会総会で追加発言の機会をもらう。Aiについての世界初の日本語論文がアクセプトされる

2000

ニューヨーク滞在

Ai実施のため、院内コンセンサスを取ることに奔走。三月、Aiの第一例目を施行。その後、症例を重ねていく。業務も解剖が多く、多忙だった。一日三例の解剖とAiを行なった日もあった

1999

病院で開催された「慰霊祭」供養の席で、読経を聞いていた時、オートプシー・イメージング(Ai)を思いつく

「このミステリーがすごい! 2000年版」でトップ10に入り脚光を浴びる。なお、『野性時代』2009年12月号 本田孝好ロングインタビュー「闇に射し込む光」によれば、この時、約10社から執筆依頼が舞い込んだという

1998

東宝テレビ部時代に監督志望だった脚本家・長坂秀佳の初監督作品「透明少女エア」(テレビドラマ)が、この日より同年3月28日にかけて、テレビ朝日系列のウイークエンドドラマ枠で放送される。放送時間帯は土曜25:10~25:40(第2回、最終回のみ放送枠は土曜24:40-25:10)。全6話。長坂秀佳は、演出(他1名)の他、原作・脚本(他3名)も担当している。また、桂今日子役として、仲間由紀恵が出演。主題歌は、Groovy Boyfriendsの「I'm here」

病理認定医試験に合格。第二子が生まれる

1997

英語の原著論文を一本仕上げ、博士号を取得。外科医から病理医へ転身(新病院完成直後の四月に、初代病理医として赴任⇒現職)

「ASIAN JAPANES」でデビュー。「DAYS ASIA」で日本写真協会新人賞受賞

1996

『不夜城』でデビュー

研究で成果が出たため、外科に戻る選択肢を放棄する。第一子が誕生

1995

懲役1年6月執行猶予4年の判決を受ける

覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕

結婚

1994

脚本を手掛けた「刑事野呂盆六(2)殺意のマリア・美人評論家が仕掛けた恐ろしい罠・帰って来た名刑事が完全密室殺人の謎に挑む!」が、TBS系列・月曜ドラマスペシャルにて、放映される。時間:21:00~22:54。製作:国際放映、TBS

大学在学中に書いた「眠りの海」で第16回小説推理新人賞を受賞。なお、同受賞作は、処女短編集「MISSING」に収められている

1993

脚本を手掛けた「刑事野呂盆六(1)完全犯罪の女・ホタル火のように闇に息づく復讐の炎・二重三重のアリバイ崩しにユニークな名刑事が挑む!」が、TBS系列・月曜ドラマスペシャルにて、放映される。時間:21:00~22:54。製作:国際放映、TBS

千葉大学第一病理学教室に大学院生として入学

1992

海岸沿いの国保の病院で、外科医として勤務(この頃、週一回、東京ディズニーランド医務室でアルバイトも行なっていた)。その後、国立の病院で麻酔医として勤務

1991

千葉の病院で、外科医として勤務

フリーランスフォトグラファーとして独立

『連鎖』で第37回江戸川乱歩賞を受賞し作家デビュー

1990

都立の病院で、外科医として勤務

ライターとして日本のジャンキー(薬物中毒者)を取材していたが、次第に自身も覚醒剤使用に溺れるようになっていく

1989

医局のシステムで二年目から地方の関連病院へ派遣される。外部研修一年目は、長野にある病院で、外科医として勤務。また、この年、車をスカイラインへ買い換える

『浅草エノケン一座の嵐』で第35回江戸川乱歩賞を受賞

1988

医師国家試験合格。正式な医師になってからの初仕事は、死亡診断書の記載だった

1987

医学部剣道部(部員五十人弱)の主将になる。父親に中古の軽自動車(スバル・レックス)を買ってもらう

1983

教養から医学部へ上がれず、留年。秋の医師薬獣大会団体新人戦(二年生までが出場資格)に大将として三回目の出場をし、見事優勝

巣鴨高等学校在学中から、ミニコミ誌などに寄稿。「中森明夫、野々村文宏、田口賢司」の「新人類三人組」に続く、「新・新人類」というキャッチコピーを、宅八郎、菅付雅信との3人でつけられかける

1981

千葉大学医学部入学。剣道部へ入部し、剣道三段を取得

1980

現役大学受験に失敗し、予備校へ通う

1976

県内トップ(当時)の高校へ進学

『限りなく透明に近いブルー』で第75回芥川賞受賞

1974

中学入学。夏の間しか稼動しない水泳部へ入部。中学校の生徒会役員に立候補(させられ)、当選

1973

小学六年生の時、吉川栄治の『三国志』を読んで感動。すぐにパクることを思いつく。具体的には、クラスメートを主人公に『四国志』を執筆、大学ノート三冊の作品はクラス内大ベストセラーになる

1971

東京都に生まれる

1970

大阪万博ガイドブックを自作

1969

地区水泳大会で五十M自由型金メダル。市の大会新記録(当時)だった

1968

長野県に生まれる

1967

小学校入学。妹と四人家族、県営住宅最上階の四階に居住

1966

「NHKシナリオコンクール」で『ものを言う犬』が佳作に入選したことをきっかけに、フリーの脚本家となる

1965

千葉県に生まれる

北海道に生まれる

1961

生まれる

千葉県に生まれる。長男。三歳までひとことも口をきかなかったため、知的障害かと思われていた。ジェネラルルージュの伝説によると、実はこの頃、お釈迦様のように、この世について沈黙思考していたらしい

1952

長崎県に生まれる

1941

愛知県豊川市千両町に生まれる

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